C・ガートルード・ヘーウッド 先生

  キャロライン・ガートルード・ヘーウッド(Caroline Gertrude Heywood18771122日―19611124日)は
  アメリカ合衆国マサチューセッツ州の出身。ニューヨーク州のヴァッサ-(Vassar)大学を卒業後、
  婦人伝道師養成学校(New York Training School for Deaconesses)で神学を学ぶ。
  1904年にアメリカ聖公会婦人宣教師として日本を訪れる。 ここでは、ヘーウッド女史の川越時代及び
  立教女学院時代の36年余の日本滞在において、特に初期の川越での宣教活動を中心に紹介する。

1.川越時代

  最初の伝道地は川越であった。おもに一緒に来日したランソン女史と行動を共にした。
  活動状況報告は、SIX MONTHS IN KAWAGOE(1905)KAWAGOE CHILDREN(1906)
  THE SUNDAY,MONDAY AND TUESDAY(1907)KAWAGOE AND ITS PEOPLE(1908)
  AN EMBASSY BUILDINGOF THE KINGDOM OF GOD(1913)と題して、米国聖公会伝道局の月刊の
  機関誌であるThe Spirit of Missionsに掲載されている。その内容については日本語にも翻訳されているが、
  以下はその中からそれぞれ一部分を抜粋したものである。

 川越という所①

  二人の目に映った川越の最初の印象は、曲がりくねった狭い道に手押し車のようなものが並んでおり、
  歩道がなく舗装もされていない。また、住民は木でできている高下駄を履いている。店の前面は昼間、
  それに冬や夏も開けっ放しで、売り物は見た目にもたくさん展示されている。
  店の主人は正座している姿がよく見られ、長いパイプからタバコをふかし、そして小さな湯沸しの上で
  手を温めている。川越の人口はキ約2万人。県の中ではもっとも大きな町で、
  東京から約30マイル(約48キロ)のところにある。
  注目すべきことは時代の背後に素晴らしい「文明開化」が潜んでいるということだ.


 川越という所②

  川越の町は大きな広野の真ん中にある。一方は何マイルも果てしなく続く水田、
  もう一方は遠方の青い山脈に隣接している穀物・野菜畑が何マイルも続いている。
  また、この周囲の平原は様々な道が繰り返し交差されている。
  そのすべての道はほとんど同等に多くの町や村にそして一群の農家へと導いている。
  つまりこれらの道はすべて町、村、農家から川越に続いているということである。
  川越は埼玉県の県庁所在地ではないけれどとても大きな町で、米、絹、さつま芋が主な生産物であり、
  広い農業地域の中心地である。そして大きな製糸工場、さまざまな種類の工場、男子中学校、女子高校、
  刑務所等がある.


 人々の外国人を見る目

  小さな子どもたちが仕事や食事をしている珍しい異邦人を近所の木に登って見ていた光景は
  やるせないことであった。私たちを見て「ワー、背が高い女の人」「あんな大きな人を今まで見たことがない」
  「白っぽい髪なんておかしい!」という言葉をよく聞いた。
  また、その人たちには男女の区別のつかない私たち二人の女性をロシア人男性と間違えた。
  川越の一般の人たちにとってはロシアとキリスト教は同じであり、衣服の袂が長く垂れ下がっていない人たちは
  男なのである。ミッションという固い決意・目的を持った私たち二人の婦人が
  なぜロシア人のスパイとして見られてしまうのか?


 宣教の難しさ

  敬虔な仏教徒でキリスト教をとても嫌っている両親をもつ少年はほとんど定期的に教会に出席しており、
  洗礼を受ける準備をしていたが、家族の反対で洗礼を受けることができなかった。
  また、キリスト教に興味を持ち、聖書を熱心に読んでいる婦人がいるが、歯医者をしている彼女の夫は
  特にキリスト教そのものには反対はしていないが、妻が教会に行くのを周りの人から知られると
  患者が来なくなってしまうのではないかと恐れている。そのようにキリスト教は一般的に嫌らわれ、
  小さな子どもたちは時々教会の壁に石を投げたり、外で太鼓をたたきながら
  聖歌の歌声を消してしまうようなことをする.


 子どもたち

   川越の通りには朝も昼も夜も子どもでいっぱいだ。冬は脚や腕や胸の部分の肌が露出しているので、
  顔は青白く寒そうだ。まるで肺炎あるいは肺結核にすぐにでもなりそうだ。
  学校の上級生の男子は英国のある学校の制服のような衣服を着ており、
  下級生は短いスカートが半分に分かれたような着物を着ている。一方女子は年齢に関係なく
  みんな着物で、ひだのついた大きめの赤いスカートをはいている。
  学校が始まっても通りはにぎやかだ。
  学校に入る年齢に達している子もいない子もたくさんいる。
  また、赤ん坊を背中に背負って子守りをしている女の子もいる。
  子どもたちがやることは、西洋の子どもたちと同じだ


 日曜学校

  私たちは自分たちの家で日曜学校を開いているが、他にも主日礼拝前に教会で常時行われている日曜学校にも
  携わっている。子どもの数は30名位いるが、出席する者はそれよりかなり少ない。
  というのは開始時間が夏は午前8時、冬は9時という早い時間がその理由であろう。
  また、この川越の日曜学校の他に、私たちは月曜日と火曜日にそれぞれ近隣地域から南方の大塚と
  入間川の村で月曜学校と火曜学校という2つの教会学校をもっている。
  大塚の教会学校は来年の5月に2年目を迎え、25名の子どもたちがいるが、
  入間川の教会学校はこの前の春に始まったばかりだが、努力すれば必ずよい見通しが立つと思っていた.


 田井青年川越へ

  明治111月、ちょうど30年前のこと、ひとりの青年(現在の田井司祭)が東京とその周辺の地図を
  ウイリアムズ主教と見ていた。ふたりは近隣の町で伝道をするために適当な場所を探していたのである。
  そして埼玉県の大きな町である川越をその場所として決めた。その後まもなくある寒い日に、
  田井氏は馬車で夜遅くその川越に着いた。最初の伝道集会は旅館の部屋を借りたが、
  旅館の主人に仕事に差し障りがあるということで断られた。そこで町の大通りにある部屋を借り、
  一晩に何回も誰もいない部屋の中に一人で立ちながら通り過ぎる人たちに聞こえるように、
  できるだけ大きな声でキリストの教えを説いた.


 宣教の素晴らしさ①

  これはもうひとりの婦人の話しだが、そのひとはすでに成長した7人の子どもをもつ母親で、
  この1年内に洗礼を受けた。その彼女がこのように言っている。「私はキリスト教徒になってとても幸せです。
  そして是非多くの人たちにそのことを伝えたいと思っています。
  できれば新聞に自分の本当の気持ちを綴った記事を載せ、もし人々がそれを読めば、
  きっと多くの人たちがキリスト教徒になると思います。そして自分の子どもたちにも神さまのことを教え、
  キリスト教徒になるよう言って欲しいと願うでしょう」と。人はどこかで熱心に伝道したり、
  教会がやることを立証したりすることができるということである.


 宣教の素晴らしさ②

  昨年のクリスマスの時期に家族全員がキリスト教徒である家のクリスマス会があった。
  3年前に母と祖母が一緒に洗礼を受け、その約1年後父と家主の祖父が洗礼を受けた。
  教会で家族のための祈りの会が行われ、10歳の息子が洗礼を受けた。
  家族全員がキリスト者になることは教会にとって本当に大きな力を得る。
  祖母は皆の前に出てこのように言った。
  「私は自分がキリスト者になり、家族全員がキリスト者であることをとてもうれしく思っています。
  これからどんな困難に出会っても私は幸せです。なぜならイエスさまを心から信じているからです」と


 洗礼にまつわる面白い話し

  ある秋の美しい朝のこと、ある若い僧侶に出会った。
  その僧侶が言うには、自分の友達のある僧侶がキリスト教徒になりたがっているということであった。
  ところが本当は、その話しは彼自身のことであった。彼はキリスト教に関する本を読み、
  そして教会に出席するようにまでなった。彼の父親は僧侶だったので親にとってみれば
  自分の息子がもし仏教の道をはずれたりもしたら親との関係はなくなることは明らかであった。
  しかし、彼はもし自分の生涯を神に捧げることに費やすならば、真実なる神を見出せると主張した。
  そして彼はやがてはキリスト教の伝道師となるために現在学校の課程を終えようとしている


 教会の建物…火災

  伝道を始めて8,9年後のこと、会堂を建てる意見が多くなって来た。
  それは町の中心地の適切な場所に建てるというものであった。5年後恐ろしい火災が川越を襲った。
  それにより、川越は教会を含めた約5分の4もの広さが完全に滅ぼされ、全般的に廃墟となってしまった。
  教会員は勇敢にその状況に対応し、お金を集め、東京から米を買い取った。
  若い人たちはそれをお金がなく困っている人には無料で与え、支払いのできる人には半額で与えた。
  町全体はその努力に対して感謝に満ちあふれ、キリスト教徒は世間から大きな評価を得たのである。
  数年の間使用できる安い一時的な会堂がすぐに建てられた.


教会の建物…一時的

  その一時的な建物は「荷造り用の箱」という言葉でずっと言われて来たが、
  皮肉にもまさにその名前にふさわしい。
  教会員がその建物を見ても決して教会のしるしとしては認めないだろう。
  また、一般の人にその建物を指さして教会だと教えてもキリスト教の信仰の力と美しさは
  決して伝わらないであろう。  
  キリスト教というのは、わびしい希望、使い古した迷信ではなくて、生きる上で必要な信仰なのだということを
  信仰をもっていないたくさんの人たちに示し、宗教の力と美しさに対する価値ある証しを持たせることは
  大切な目的である。それが新しい教会を必要とする理由である.


 教会の建物…新しく

  ここで働いている私たちはキリスト教をこの町にしっかり定着させるために、まず広くて祈りの場にふさわしい、
  そして少なくとも入るのにあまりにも貧弱で批判を受けることのないような教会を建てるという考えを
  もつに至った。
  私たちが最初にやるべきことは、そのような建物を建てるための援助に対する働きであり祈りであった。
  4年前私たちの努力に応じて新しい教会を建てる土地を買うことができた。
  教会員ばかりでなく教会員でない友達の間にも大きな喜びが起こった。
  「まもなく主の価値ある建物が私たちの家の屋根の上にそびえ立ち、そしてイエス・キリストの福音の光が
  その地域のまわりに輝くであろう」 このようにこの町では新しい教会を建てることの必要性が大きく、
  その仕事を続けることがまさに大切なのである。私たちに同調し援助を約束してくれた人が何人かいる。
  しかし私たちはさらに多くの援助を必要としている.


  以上がヘーウッド女史の報告書の一部だが、その他にも彼女は近隣地域の英語研究会、
  私立川越女学校、川越町立高等女学校、初雁幼稚園等で伝道・教育事業に携わった



2.立教女学院時代

  川越時代の宣教活動を終え、1907年には立教女学院の英語の教師となり、その後副校長に就任した。
  しかし、川越を離れても1913年に教会堂建設計画についての願いと募金協力の呼びかけを
  田井正一司祭と共にThe Spirit of Missionsに投稿している。
  現在使用されている礼拝堂はヘーウッド女史をはじめ、様々な人たちの努力と援助によってできたものである
  女史は30年余りも立教女学院の教育事業に費やしたが、
  太平洋戦争が激化した1941年に日本を惜しまれながら離れ、サンフランシスコ郊外で過ごし、
  その後日本を訪れることはなく196184歳の生涯を終えた。
   ヘーウッド女史の生涯、そして特に立教女学院時代の働きについては「立教女学院・草創期の人たちの物語」
  (立教女学院発行)の中の「立教女学院のマリア様C・G・ヘイウッド先生」(蔭山純也著)に
  わかりやすく掲載されている。


寄稿  森信幸